100-62 水
100-62 水
スーパー銭湯で見ず知らずの年配の男性に声をかけられた。
かなり太った体格のいい男性で、腹部に大きな手術の痕があった。
相手はどうやら知り合いとカン違いして、誠に声をかけてきたらしい。
「いやいや、すみませんでした。
雰囲気がよく似ていたものだから、てっきり、△かと思いまして。
ああ、そうだった。
△はいまここにいるわけがないんだ。
いやまったく、トシをとるとボケてしまって、とっくの昔に死んでる知り合いが、こうして風呂にいるわけないですからね」
男は湯舟の中で誠の隣に腰をおろし、気さくな感じで話しかけてきた。
誠としても別に人と話しをすることは苦に感じないので、男へ適当な言葉を返した。
「失礼ですが、おいくつですか?」
「いくつに見えますか?
もう、80はとっくにすぎました。
次の山も越えてますよ。
知り合いはみんないってしまいましたよ。
わたしは、まわりに生かしてもらったような人間なんで、こうしてなかなか死ねないんだと思います」
「90を過ぎておられるんですか、すごいですね。
それにしては、お元気そうだ」
「元気ですよ。
これまで何度も死にかけましたけどね」
男は、豪快に笑った。
「戦争にも生きました。
わたしが長生きしてるのは、さっきも言ったように、あの時、拾った命のおかげですよ。
わたしは、命の水を飲んだんです。
それを飲むと長生きできるようになる水をね」
男の話に誠は興味を持った。
「そんな水があるんですか?
まさか、お酒のことじゃないですよね」
「酒じゃありませんよ。
ねぇ、あなたはその水の話を聞きたいんですか?」
「ええ。よかったら、教えてください」
誠の返事に、男はうれしそうに頷き、語りはじめた。
「戦争の頃の話です。
わたしは外国へ兵隊に行きました。
ジャングルです。
同じ舞台の仲間たちといっしょにジャングルを行進しました。
どこから敵がくるかわからない、蛇だのなんだの、危ない動物もたくさんいるところです。
日本とは気候が違うので、体調を崩すものも多かったです。
わたしのこれ、この傷も戦地で手術したんです」
男は腹の大きな傷痕を指でさした。
「盲腸でした。
戦地でどんどん苦しくなって、設備もないし、麻酔もない。
看護婦も医者もろくにいない中、衛生兵に手術してもらって、盲腸をとったんですよ。
素人が縫ったからこんなにひどい傷が残っちゃった。
でも、これもとらなければ、あそこで死んでましたね」
「ほう。
それもまた奇跡的な話ですよね」
「いまの日本ではありえん話です。
野戦病院でしばらく休んですぐに隊の進軍に同行しましたからね。
いま考えたら自殺行為ですよ。
それでわたしらの部隊は、待ち伏せの夜襲を受けたんです。
真夜中に敵に攻め込まれて大騒ぎでした。
ジャングルの闇は本当の闇です。
敵も味方もどこにいるのかわからない。
わたしは四つん這いになって、そこから逃げ出しました。
ジャングルの泥の中を頭を低くして這いまわったんです。
銃声がしたら、そこから少しでも離れた場所を目指しました」
「暗闇の中を歩伏前進したんですね」
「そうですよ。歩伏前進です。
そうこうしてるうちに雨も降ってきた。
ジャングルは雨が多いですからね。
泥水で全身ぐちゃぐちゃですよ。
あの時、わたしは盲腸の病み上がりでしたから、逃げる途中で何度も意識が遠くなりかけました。
でも、ここで気を失ったら死ぬと思って、起き続けました。
そうして、2時間か3時間か、うつ伏せになっていましたが、なかなか夜は明けません。
わたしはついに動くことができなくなってきました。
さらにノドが渇くのです。
水が欲しくて仕方がない。
奇襲を受けたわけですから、水筒なんかは持っていません。
でも、地面の泥水を口にしたら、腹を壊すのは目にみえています。
その時、ふと、わたしの視界の端に、小さな池のようなものが目にとまりました。
暗闇の中でですが、それはまるで泉のようにみえたのです。
わたしは残りの力を振り絞って、泉までいきました。
そこには新鮮な水がありました。
わたしは泉に顔をつけて、水を飲みました。
水はたくさん、ありました。
水が飲めて気が楽になったせいか、わたしはそこで意識を失いました。
あのまま、死んでいても、全然、おかしくなかった」
男はそこまで話すと一息ついた。
「その水が、命の水だったんですか?」
誠は話の先が気になった。
「そうですよ。
わたしが目をさますと夜は明けてしました。
そして、わたしは泉ではなく、血だまりにひれ伏していたのです。
わたしの周囲には同じ部隊の仲間たちの死体でいっぱいでした。
夜襲を受けた部隊は、わたしを覗いて全滅していたんです。
わたしは一晩中、仲間たちの死体のまわりを這いつくばって動きまわり、仲間の血の池で、渇きをいたしていたのです。
そうです。
わたしを助けてくれた、命の水は、仲間の血だったんです。
わたしは、必死で、匂いも味も気づかなかった」
男は気持ちよさそうに、湯舟のなかで大きくのびをした。
誠はその時の泉に横たわった男の姿を想像して、言葉を失った。
仲間たちに救われた命を持って、いまも彼は人生を謳歌している。
END
☆☆☆☆☆
62話めは以上です。
この100物語は、私が聞いたり、体験してきた怪談と創作のミックスみたいな感じです。
聞いた話です。
「必死だと血の味もわからん」と本人は言っていました。
僕ら平成の日本人があまり体験しない経験だと思います。
みなさんのご意見、ご感想、お待ちしてます。