映画「12人の優しい日本人」(1991)のあらすじとネタバレ感想 いまや90年代邦画のスターンダードの1本。
12人の優しい日本人の評価
☆☆☆☆★
1991年(平成3年)12月14日、劇場公開された作品です。
監督は中原俊。脚本は三谷幸喜と東京サンシャインボーイズ。
91年度の文化庁優秀映画作品賞とキネマ旬報ベスト・テンと毎日映画コンクールの脚本賞を受賞しています。
ようするに脚本のよさが認められている作品だということですね。
一部屋でえんえんと12人が話し合うだけの内容ですが、それでいて116分間、観客を飽きさせないのは、2018年のいま観てもすごいな、と思います。
もともと1990年に三谷幸喜と東京サンシャインボーイズが書いた戯曲で、映画公開後も再演されています。
いまや90年代の邦画のスタンダード、古典となっている本作について思うのは、公開された当時、これはすごく新しい感じがしたよな、という感慨です。
80年代、邦画全体の興行収入が振るわず、実写の邦画の中のお芝居からは観客の心は離れていました。
この作品は、当時の多くの邦画とは違っています。
本作の公開は、90年代の新しい邦画は、こうした誰でも楽しめる親しみやすい作品をこれからは作っていきますよ、と映画ファンに宣言している雰囲気がありました。
邦画だけど、暗くも難しくも、バカバカしくもないよ。ちょっとおもしろいから観てごらんよ!! と。
陪審員たちが話し合うだけの小さなお話ですが、いま観てもよくできています。
当時の敏感な若者にウケていた小劇団の舞台劇をほぼそのまま映画化する。
それが新しくて、観客にとっても刺激的だと感じられた制作側の感性に僭越ながら、感心します。
90年代の新しいカタチへと邦画が踏み出した最初の1歩として、この作品は今後も観られ続け、称えられると思いますね。
<こじんまりとした内容はよいのですが、それ故に劇場用映画ならではワクワク感、スケール感には欠けると思いますので、☆は4つです。>
12人の優しい日本人のあらすじ
刑事裁判に陪審員制度が取り入れられている架空の日本。
無作為に選ばれた12人の陪審員が裁判の判決を決めるのです。
それは無罪でも有罪でも12人、全員一致の意見でなくてはなりません。
若くて美人の女性の被告人が、被害者で元夫を殺害しました。
果たして被告は無罪か有罪かで陪審員達は討論することになります。
被告が若くて美人であり、陪審員達の印象がよい、ということで最初は、陪審員達は、全員、無罪に手をあげます。
これで、審議はすぐに終了するかと思われましたが、「話し合いがしたいんです」と言う陪審員が、自分は有罪にすると主張をかえて、12人の議論が始まります。
真実などどうでもよく、さっさと終わらせて帰りたい者、考えなしに多数意見に調和する者、またさしたる根拠なく自分の主張を曲げるのをイヤがる者など、議論は二転三転していきます。
やがて、陪審員の大多数は有罪へと傾き、このままだと被告の有罪が確定するのでは、と思われだした頃、弁護士を自称する陪審員(豊川悦司)が、独自の推理で他の陪審員たちの有罪論を崩しはじめる。
12人の優しい日本人のネタバレ・感想
ネタバレです。
映画を観る前に読むと、つまらなくなる可能性のあることを書きますよ。
いいですか?
最終的に被告は陪審員全員一致で無罪になります。
結局、この事件は被害者の自殺であり、被告人は無罪であるとの結論へと導いた豊川悦司演じる陪審員は、自分は弁護士ではなく、以前、弁護士役をした役者であることがラストで明かされます。
この作品はシドニー・ニメット監督の映画「十二人の怒れる男」(1957)のオマージュであり、「十二人の怒れる男」が父親殺しの罪を問われた少年について、12人の陪審員が審議の末、真実へとたどりつくものであるのをなぞるように、元夫殺しの罪に問われた女性の真実を陪審員たちが審議する内容です。
本家である「十二人の怒れる男」は、名作として評価されており、芝居版も各地で何回も上演されています。僕も学生の頃、学校の課外授業(演劇教室)で、観た記憶があります。
「12人の優しい日本人」も、問題となっている事件の真相を暴くという意味でのミステリ的味つけがとても効いています。
事件の真相がわかって最後にスカっとするミステリ的楽しみを得たい人なら、間違いなく気に入る作品だと思います。
12人の優しい日本人の最後に
基本的にこの記事は、僕の部屋のHDに入れっぱなしになっている映画を整理するためのブログです。
そもそも録画したまま、消去もせずにずっと何年? も保存してある時点で、そこになんらかの意思があるはずなのですが、僕自身、この作品についてはそれが自分でもあまりはっきりしなくて、なんとなく録画して、なんとなく保存していたという感じです。
しかし、こうして振り返ってマジメに観て、考ると、観ても時間をムダに損した気はしませんでした。
かといって超新鮮!! というわけでもなく、この映画が公開されえた頃(1991)、三谷幸喜は売り出し中だったな、中原俊監督はこれと「櫻の園」(1990)がピークだった気がするな、といろいろ懐かしい気持ちになります。
旧友のことを思い起こすような、と言いますかね。
この映画を配給したアルゴ・ピクチャーズ株式会社は、閉塞状況にあった日本映画業界に風穴を開けるべく6人の映画プロディユーサーが1990年の発足した会社で、最近は名前を聞きませんが、これまた懐かしいです。
アルゴ・ピクチャーズの代表的な配給作品は、ノーライフキング(1989)、櫻の園(1990)、遊びの時間は終わらない(1991)、渋滞(1991)、喪の仕事(1991)、ザ・中学教師(1991)など、90年代前半にはビデオレンタル店でよくみかけた作品が多いですね。↓公式ページへのリンクです。
興業的にはそれなり(13・2億)だったのに、あちこちから叩かれまくった近作「ギャラクシー街道」(2015)の印象が強い人は、本作を観ると三谷幸喜のよさ、おもしろさを再確認できるでしょう。
僕もこれを観て「三谷幸喜」のなにがスゴかったのか、思い出せました。
僕は映画、テレビばかりで劇場で生の舞台を見たことがありませんが、三谷幸喜の魅力は、演者(役者)に演者に芝居していることを実感させるシナリオだと思います。
演じている人たちに支持される芝居=演じがいのある芝居ではないでしょうか?
彼の映画にはハズレもあるのは、それが必ず観客の観る楽しさとイコールになるわけではない、というためですよね。
やってる人たちがおもしろくても、観てる方も楽しいとは限らない。小劇団などではしばしば起こる事態だと思います。
僕個人としての三谷幸喜の評価は、ありふれた人物、出来事をそんなに誇張することもなく、くどくなる一歩手前ぐらいで丁寧に描くことで、おもしろくできる才人なんですよね。
宇宙とか時代とか大きな話よりも個人のパーソナルなおもしろさを丹念に描く小さな話の方がむいているのかも。
さて、今度は中原俊監督の「櫻の園」(2008)を観てみようかなと思います。これは、大成功した(1990)版を同じ監督でリメイクではなく、リ・イメージしたものだそうです。
あまりよい評判を聞きませんが、どうなんですかね?
もう何年も僕のHDに入りっぱなしです。
楽しみです。